創価学会の歴史 |
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当時、軍国主義国家であった日本は太 平洋戦争前に、欧米による植民地支配か らアジアを開放するというスローガンを 掲げ、アジア各地へ進行した。表むきの 目的は大東亜共栄圏樹立であったが、そ の実態は欧米に代わって日本がアジアを 支配するというものだった。まさに侵略 戦争意外のなにものでもなかった。 |
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権力者達は大義名分をかざして全民衆をその 戦力としてしまった。聖戦の名の元に人々の精 神は統一された。そして戦争を神聖化する精神 の支柱が天皇を神とした国家神道であった。 「日本よい国神の国」云々、などと国民を洗脳 していったのである。 |
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当時、小学校においても天皇を神とする教育 が徹底され、子供たちは国民に準ずる者として 少国民と呼ばれ、天皇に生命を捧げる国民の予 備軍とされていた。教育勅語を徹底的に暗記さ せられ、天皇の家来として国のために尽くすと いう思想をたたき込まれたのである。 |
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だが、この教育体制に一人、異議を唱えた教 師がいた。後に創価教育学会を設立した牧口常 三郎である。「国家神道は間違っている。なぜ 子供たちに大量殺戮の方法を教えねばならんの か。国家の目的を優先させる教育は必ず国を滅 ぼす」と。 |
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教育勅語が発せられて3年後の明治26年、 牧口先生は教職に就く。教育が国家によって統 制されることに反発し「教育現場における国家 の監視を廃止せよ」と訴えるその大胆な発言は 牧口先生を学校から学校へと追いやることとな った。 |
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富国強兵政策の影で民衆の暮らしは貧しかっ た。昭和3年、中国への侵略が進む中、国内で は、特別高等警察課が設置されていた。牧口先 生は、一人ゆくすえを憂い社会の変革を模索し ていたが、やがて日蓮仏法の中ににその答えを 見い出した。 |
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牧口先生は日蓮仏法による教育変革を 目指し、昭和5年創価教育学会を設立す る。「国家を大善に導かねばならない。 余は公益を善というと定義するものであ る」と。当時、戸田先生は牧口先生が校 長を勤める小学校の教員で、牧口先生を ささえていた。そして、教育が人間と社 会の変革を成し得ると考え、牧口先生と ともに教育改革運動を開始する。 |
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日本は、昭和16年、真珠湾攻撃を経 て太平洋戦争へと突入する。「実証のと もなわない観念論に随って貴重なる国民 全体の生活を犠牲にすることは絶対に誡 められなければならぬ。これについては まず1番に神社問題が再検討されなけれ ばならなぬ」と。国家による宗教統制が 加速する中、それは危険な言動だったが 敢えてこの危険を冒すことを選択した。 |
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牧口先生は、緊迫した状況をも顧みず、全国 の何百という座談会に出席する。そこで「この 戦争は国難である」と、進行中の戦争を批判す る。創価教育学会の集会には特高警察による監 視の目がはりついていた。 |
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昭和18年、牧口会長、戸田理事長をはじめ とする本部関係者11名が逮捕される。罪状は 神宮の尊厳を冒涜したことと治安維持法違反、 ならびに不敬罪ということだった。 |
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翌19年連合国による大空襲がはじまり日本 の敗戦は決定的となった。そして、苛烈な取調 の中、11月、信念を最後まで貫き通した牧口 初代会長は、獄中にて逝去される。 |
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獄中で牧口先生の死を知らされた戸田先生は 悲しみの底に突き落とされた。その苦悩と絶望 の中で戸田先生は誓う。「師の意思を継ぎ民衆 が国家の犠牲にならない社会や、抑圧のない社 会の建設を目指そう。先生の死を決して無駄に はしない」と。 |
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翌20年7月3日戸田先生は出獄され、焼け 野原に立った。そこに戦争というものの正体を みた。極度の栄養障害に侵されて歩行もままな らない足で焼け跡をさまよった。恩師はすでに なく、創価教育学会も崩壊していた。 |
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「大悪起これば大善来る」戸田先生は確信さ れていた。昭和20年9月2日、アメリカ軍の ミズーリ号において降伏文書が調印される。連 合国軍総司令官任務は日本を民主化することに あった。平和国憲法が制定され言論の自由、出 版の自由、信教の自由が法にて確立された。 まさしく時は到来した。 |
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戸田先生は創価教育学会の再建に起ち上がり 日蓮仏法の哲学について講義を開始した。集ま った人々は、ひどく貧しく皆飢えていた。そこ で、戸田先生は、人々に生きる希望と活力を与 えた。「苦難を自分の宿命として諦めるのでは なく、自分の人生は自分で切り開くのである。 現実から逃げず、そこにしっかり根を張って生 きるのだ」と。 |
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昭和22年、19歳の池田先生は、戸田先生 と座談会で出会う。「戦争に反対し牢獄から出 て来られた人だからこそ信頼できた。この人に ついていこうと自分で決めた」と当時のことを 語ってくださっています。 |
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その後、創価学会と改名される。会員も5千 所帯を超えた。しかし、戸田先生は、日本の政 治状況を尚も憂慮されていた。資本主義対社会 主義・共産主義という政治体制の中で、当時、 庶民の声を直接代弁するような政党は生まれて なかった。 |
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既成政党やイデオロギーにとらわれない民衆 の声を反映する政党を目指し、昭和30年、日 本の政治体質の変革を掲げ、創価学会は政界に 進出した。その動きへの反発が権力側からは勿 論、労働界からも起こった。 |
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昭和31年、参院選にて創価学会のおす候補 者が炭労の候補者の得票数を上回ったことから 翌32年、北海道の夕張にて、炭労は組合統制 を乱すものとして、学会員を批判した。そして 創価学会弾圧3ヶ月計画を発表し学会排斥運動 が開始された。いたるところに中傷ビラがまか れ、新聞紙面には創価学会をあからさまに誹謗 する記事が踊っていた。 |
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組合側の攻撃は、学会員1人1人の信仰に向 けられた。明らかに信教の自由を侵害するもの だった。事件の報告を受けた戸田先生は、当時 29歳の池田先生を派遣する。 |
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池田先生の指導のもと、学会員である炭鉱労 働者とその家族たちは、ついに起ち上がった。 自分たちの信仰と生活の全てを掛けた闘いだっ た。一歩も退かぬ庶民集団を前に組合は引き下 がるほかなかった。池田先生は、ここに民衆運 動の勝利を宣言したのである。しかし、このこ とは、後につづく権力との闘争の始まりにすぎ なかった。 |
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夕張事件直後、池田先生は大阪府警に出頭を 求められる。公職選挙法違反の容疑だ。身に覚 えのない罪で逮捕される。身の潔白を訴え続け てきたが、容疑を認めなければ戸田先生を逮捕 すると脅迫され、戸田先生の身を案じ、敢えて 容疑を認めた。そして、大阪の街中を引き回さ れさらし者とされた。 |
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不当逮捕の講義集会は2万人を超えた。2週 間後、池田先生は釈放されたが、無実が証明さ れるには、それから5年の歳月を要した。 |
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昭和32年、戸田先生の願業75万世帯を達 成し、翌33年4月2日、会員を83万世帯ま で拡大し、出獄から13年間、戦い続けてこら れた人生を終えられる。 |
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戸田先生の死によって創価学会は空中分解す るとマスコミはこぞって書きたてた。そんな中 昭和35年5月3日池田先生が第3代会長に就 任される。「若輩ではございますが、本日より 戸田門下生を代表して化儀の広宣流布を目指し 一歩前進への指揮をとらさせていただきます」 |
数年後には、会員は300万を超えた。そして今、池田先生 のもと、一大民衆勢力へと拡大した。宗教という枠をはるかに 越え教育・平和・文化に及ぶ大発展である。創価大学をはじめ とする教育機関、エリートが独占していた文化や芸術を民衆が 気軽に楽しめるようにする民主音楽協会などが設立された。 「民衆は覚醒しなければならない」日蓮大聖人を源とする幸 福の理想の追求は牧口先生から戸田先生へ、そして池田先生へ と脈々と受け継がれていった。この尊い創価学会の歴史を忘れ ることなく、次代を担う方々に受け継いでいただきたい。 池田先生は「21世紀は人間復権!」と言われている。