難病を克服し勝ち取った人生
王者本部 市之倉支部 たじこば さん / 2003.05 up

 私は創価学会に入会して今年で21年になります。私の入信動機は
自分の病気です。妻は私より半年早く入信しており、全ては妻の入信
から始まったのです。
 妻が入信した翌月の事です。朝起きた時、体の異変に気づきました。
腕と足、それに胸にも赤い小さな点がポツポツと出ているのです。ジ
ンマシンかなと思いながらも痛くも痒くも無いので仕事へ行きました
が、翌日の朝、今度は赤い点が体中にビッシリと出ているではありま
せんか。それに時間とともに心臓がバクバクと高鳴り、頭もズキズキ
と痛くなりだし、歩く度に息切れがする−これはおかしいと思い病院
で検査をしてもらったところ、医師は「血が足りないよ 貧血だよ」
と薬と鉄分注射を行いました。しかし次の日は更に病状が悪化、熱も
出てきた為、再度病院へ行きましたがやはり極度の貧血との診断。そ
して医師は「私では解らない病気のようだから専門医に来て貰う」と
言いうのです。翌日、血液専門医の診断を受けるや否や「緊急輸血だ」
と言われ、意識朦朧の私は何がなんだかわからない内に治療室で輸血
をしておりました。そして専門医はカルテを見ながら私の血液が健康
な方の40%しか無かった事、その原因を突き止める検査を行う事、
輸血は三日間かけて1.8L行う事など説明を受けました。そして数
日後の検査結果が出た時、専門医は「家族を呼びなさい」と言うでは
ありませんか。医師の言葉に普通の病気じゃないのかと不安ながらも、
私は病名を尋ねました。専門医は「家族に話しますから」と繰り返す
のみで教えてくれません。私は「自分の病気は自分が戦うのだから、
だから病名を教えて欲しい」と言い、思わず「白血病ですか?ガンで
すか?」と口から出ていました。専門医は「白血病とか、ガンならま
だ治療法があるのだが」と言うではありませんか。そして「君の言う
とおり、病気と戦うのは君本人なのだから」と病名を教えていただき
ました。病名は再生不良性貧血。私の場合は重症で血液の赤血球、白
血球、血小板などどれもが全く作られてない事。この病気の治療法が
無い事。自分の体で血が出来ないので生き続ける為には輸血しかない
事。輸血の血液はその日に献血された新鮮な血液を洗浄し赤血球のみ
とする事。輸血は2週間毎に3日間行い、最低でも1.8L(一升瓶
1本分)とする事。輸血の限界は長く生きて3年位である事。そして
怪我をしても、しなくても体の中、外のあちこちで出血する事があり
頭の中で出血すると終わりだと。そして最後の手段として骨髄移植と
いう手術があるが成功率は、当時6%、いちかばちかだ言うのです。
私は専門医の説明を聞いているうち、涙があふれ、医師の一言一言が
かなづちとなり、頭をガンガン叩かれている様でした。血液の専門医
はM大病院のT先生でした。T先生からM大病院には私と同じ病気で、
東海6県から30数人が入院している事を聞きました。全員が発病と
同時に入院しているらしく、いろいろな薬を試しながらの治療、万が
一の時にも病院にいたら安心じゃないかと言うのです。
 私は私に残された命はあと3年有るか無いか、残された時間をどう
生きるか、妻はまだ若いし、子供も生まれたばかり、離婚した方がい
いのではないか、いや妻にも親にも心配は掛けたくない。輸血を続け
て1年でも2年でも生きて..いや輸血の血液はどうする?輸血して
もらったら献血で返さなきゃいけない(当時はそういう制度でした)
そうなれば家族に、親に病気のことが分かってしまう。会社にだけは
病気の事を話そう。そして皆に献血をお願いしよう。輸血さえすれば
少しは生きられるし、いつ死ぬかわからないのだったら入院なんてし
たくないし、と結局、この病気の事は私の家族には絶対秘密にしてほ
しいとT先生と看護婦長さんへお願いしました。私に病気の全てを教
えてくれたT先生も看護婦長さんも私の固い決意に渋々了解していた
だきました。輸血を終えると健康そうに見える自分でしたが、実際は
死との隣り合わせ、いつ体のどこで出血するかわからない恐怖、そし
て10日もすると激しい動悸、頭痛と息切れがおそってくるのです。
そしてまた輸血を3日間―。まるで吸血鬼ドラキュラです。輸血を数
回受けたある日、恐れていた出血が鼻から、口から出る様になりまし
た。会社でも、家でも、起きていても、寝ていても場所を選ばず大量
に出るようになり、輸血した分が出てしまうことも有り、緊急輸血も
何度か行いました。さすがにこの頃になると 妻もおかしいと気づい
た様で私に内緒で病院へ行き、私の病気の全てをT先生から聞き出し
たようです。
 妻は私が病気になる1ヶ月前に入信しておりました。その数ヶ月前
の事、妻が創価学会に入りたいと言った時、私は大反対をいたしまし
た。妻が入信を決めたのは私の一言。「勝手にしろ!」で、妻の返事
は「勝手にさせていただきます」でした。以来私は創価学会そのもの
を知ろうともしませんでした。
 万が一、妻が私の病気を知った時はさぞ悲しむだろうなあと思って
いたのですが そんなそぶりは微塵も無く、「医者が治らないという
病気もこの信心で治るよ。絶対に治るからやろうよ」と目を輝やせて
言うのです。国が治らない病気と認めたから難病、宗教で治るわけ無
いだろーと言うと妻は「本当は死んでいたかもしれない。でも私が信
心したから病気が早く見つかったんだよ。願いが叶うから、絶対に治
るからいっしょに信心しようよ」と言うのです。でも私は素直に聞け
ませんでした。しかし私の体調は徐々に悪化。仕事中に出血し、会社
から血だるまで家に運ばれたり、客先で血を吐き倒れたりしました。
が妻の前では弱気な自分を見せるとまた信仰の話になると思い、気力
と信念だと強気でした。しかし発病して6ヶ月後、強い薬と大量の輸
血、そして妻の信心の誹謗を続けた為か 熱も下がらず、いよいよ体
も動けなくなり、気力も信念も失せていた時、学会幹部の方が見えい
ろんな話をして下さいました。そして最後に「一緒に信心やろうよ」
の言葉に力なく「ハイ」とうなずきました。そして創価学会へ入会い
たしました。そして翌日病院へ行きました所、医師は「即入院、ベッ
ドへ行くまで車椅子」と言うではありませんか。昨日願いが叶う信心
だと言われ入信したのに入院なんてー。私の落胆は言葉では表せませ
ん。実は以前、T先生から「一度入院したらもう二度と娑婆へ生きて
出られないだろう」と言われていたからです。落胆する私を見て、妻
が「百万偏の題目を上げよう。幹部の方が百万偏あげれば何かが変わ
ると言った。二人で百万偏の題目をあげよう」と。またそんな話かー
と思いましたが、妻の言葉に反発する元気すらない自分ですから 素
直に車椅子で病室へ、ベッドに寝たまま 白い天井に一目見たご本尊
様を必死で思い浮かべ、朝昼晩の輸血と、点滴が落ちる速さにあわせ
て、お題目を唱えました。そして信心について何も知らない私は学会
の書物を読み漁りました。私の病気の為には無菌室のような個室がい
いともいわれましたが、T先生の配慮で内科ではなく、手術を迎える
方たちと同じ、外科の大部屋を用意してくださいました。病室の皆さ
んもいい人で、話し相手には事欠きませんでした。私の唱える勤行、
題目の声に話が弾み、後で知るのですが折伏を自然に行っていたので
す。入院中、毎日薬が出るのですが飲んだ瞬間に喉がただれる様な劇
薬です。モルモットと同じで効くか効かないか解らない、何万種もあ
る薬を一定期間飲んでは検査をし、様子を見るらしいのです。一度、
ある薬の副作用で体が倍にも膨れ上がり、高熱とジンマシンも出て、
ショック状態となりました。その経験からかT先生も薬は、たじこば
さんの好きにしなさいと言ってくれたので毎日捨てる事にしました。
またある時、鼻からの出血が流れるように出て止まらず、医師も処置
をするのですが全く止まらず、輸血を行いながら口から血を吐く繰り
返しで、二日たっても止まらず、医師も「気力で止めよ」と言うばか
り。「自分ももうダメか、このまま死ぬのか…」と思い始めた時、学
会幹部の方が妻と見舞いに来て下さいました。異常な私の姿を見て、
そして枕もとの花を指差し「此の花は此の花の使命がある様に、君に
も君の使命が有るのだから、絶対治る」と激励して下さいました。信
心しても、題目を唱えても病気は良くならない、血も止まらず直らな
いのかと疑った私。信心してご本尊様にすがって助けてもらおうなん
て思っていた自分が恥ずかしくなりました。ご本尊様はよそにいるわ
けではない、自分の中に居るのだから治らない訳が無い。血を止める
んだとの決意の題目を唱えながら迎えた三日目の朝、知らない内に出
血は止まっていました。その日より、病気を絶対直して見せるとの決
意で唱題に励みました。その後も肺炎になったり、ショック状態にな
ったり、幾度かの危機を乗り越えました。入院して百日目の事です。
医師から「一度退院してみるか」と言われました。一度入院したら二
度と生きて娑婆へは出られないーと覚悟の入院でしたので思いもよら
ぬ言葉。私は嬉しくて妻にこの事を連絡すると「約束した題目が昨日
百万偏に達した」と言うではありませんか。退院の日、その日は奇し
くも戸田先生の命日である四月二日、晴れて退院する事が出来ました。
 でも、退院したものの病気が治ったわけではありません。輸血はこ
れからも続くのです。退院の日、今後の治療の説明を医師から聞くわ
けですが、妻があまりにも明るいので、医師も「奥さん、ご主人の病
気、本当にご存知ですよね」と言われました。この時妻は「いよいよ
これからが病気と本当の戦いなのだ」と闘志を燃やしていたそうです。
退院して我が家のご本尊様の前に座った時、嬉しくて、嬉しくて涙が
次から次へと溢れ出ました。しかし私は余程業が深いのか、ご本尊様
の前に座り題目を唱えると出血するのです。血を流しながらの唱題、
でも病院へは二度と入院するものか、元気な体となって実証を示すの
だとの決意で唱題に励みました。
 後に知ったのですが私がもう助からないと判断した私の親は、子供
を引き取るので離婚してやってほしいと妻の両親に申し入れたそうで
す。しかし妻は、離婚は嫌だ、創価学会の信心で治すと言い張り逆に
私の親にも学会に入りませんかと折伏、その話を聞き、驚いたのは妻
の両親です。信心猛反対でしたから、実家から連れ戻しに来たそうで
す。しかし丁度その時、学会幹部の方が家にきて下さり、妻の強い決
意と幹部の方の説得で両親を説得。学会にあづけますと両親は帰った
と聞きました。それから妻は病気が治るのならなんでも頑張ると、自
転車の前かごに子供を入れて聖教新聞の配達に、折伏に走っていたそ
うです。世間の方から見たら、なんと気の毒な家族だと思われていた
かも知れませんが、妻は「冬は必ず春となる」今がどん底なのだ。で
も必ず良くなる。今は反対している両親もきっと理解してくれると。
それと、医者から子供は病院へ連れて来ないほうが言いと言われてい
たので入院中は殆んど子供に会えませんでした。ですから私の子供は
男の方を見ると誰でもパパ、パパと言っていました。この子の為にも
もう二度と入院するものかと決意を新たにしました。
 退院してまもなく、最後の手段である骨髄移植を検討する事になり、
家族全員の血液、骨髄検査をする事になりました。普通、検査しても
適合するのは何万人検査してやっと一人見つかるというレベルです。
驚いた事に、私たち兄弟は三人とも適合との結果、本当に不思議です。
T先生も私も家族もいちかばちかの骨髄移植に合意、M大病院の無菌
室さえ空けばすぐ手術にと段取りをしていたのですがなかなか部屋が
空きません。そんなある日の事です。男子部の幹部の方が来て第二回
中部平和文化祭があるので参加しないかと誘いに来ました。私は「会
社へも行けない体で運動も一切するなと医師より言われているし、ケ
ガをしたら血が止まらないし、輸血もあるし」と断わりの理由を並べ
ました。幹部の方は「病気に負けてどうするか、今こそ宿命転換する
時ではないか!」と言うでは有りませんか。病人を病人とも思わぬ、
厳しくとも有り難い激励。宿命を転換する。この言葉で文化祭の参加
を決意しました。入院で体の弱った自分には大変辛い練習の日々でし
たが、雨の日も、炎天下の日も休まず練習に参加、家に帰り題目を唱
えながらご本尊様の前で寝てしまう事もしばしば有りましたが、本番
も無事参加する事が出来ました。不思議な事に文化祭を境に輸血の量
が1.8Lから1.6L、更には1.2Lと減り、輸血の間隔も2週
間から3週間、1ヶ月、2ヶ月と伸び、発病して2年半で輸血はもう
必要なしと言われました。
 T先生からは「骨髄移植、やらなくて良かったね、でも薬も飲まな
くて、どうやったらこうなるの」と言われ、私のカルテを見ながら
「そうか、創価学会やったね、本当によく頑張ったね」と言ってくれ
ました。正に「南妙法蓮報蓮華経は獅子孔の如し、いかなる病障を成
すべきや」の御金言を我が身を以って実証する事が出来ました。この
自分の体験を語らずにはいられないとT先生了解のもとに同じ病で入
院しているM大病院の方達へも折伏に行きました。私の話で皆に希望
を持たせてやってほしいとのことでした。この病気が治るなんて、今
は信じられないかも知れない、でも健康な方と同じように生活出来る。
輸血もいらなくなる絶対よくなると訴え、患者さんがいると聞けば西
へ東へ信仰を語るため走り回りました。残念ながら本人より家族の方
の反対が多く、誰一人よい返事を頂けませんでした。当時、同じ病気
の方は30数名いたのですが約20年経ち、現在まで生き残ったのは
私だけです。
 いま思い返せば、本当に不思議なことの連続です。主治医のT先生、
本来なら患者本人には言わない病名を教えて下さり、M大病院へ入院
するはずが市民病院で通院患者として扱ってくださり、薬も無理して
飲まなくてもいいと捨てるのを許してくれました。二つ目は病気にな
っても生活費には一切困らかったことです。国の指定した難病でした
から治療費は一切不要でした。それどころか逆に治療費が市から給付
されました。そして会社からも長期間の休職にも拘らず毎月の給料を
ほぼ全額頂けたのです。三つ目の不思議は輸血の血液です。当時は輸
血したら身内で献血などして返さなければなりませんでした。何万cc
の血液です。親戚や会社の方達では当然足りません、実は警視庁に勤
める弟が機動隊、白バイ隊員又愛知県警の友人に献血を呼びかけ、新
鮮な血液がいつでも用意できたのでした。しかし、制度の見直しで輸
血分はもう返さなくて良いことになりました。気兼ねなく血液がいた
だけるように成ったのです。そして四つ目は 幾度か大出血した自分
に対し、T先生は血を止める働きの血小板輸血を一度も行いませんで
した。出血を気力で止めよと言う方ですから。出血で危険な状態でも
使う許可を出しませんでした。この事を後になって先生に聞くと人間
の体はよくできたもので、血小板とか他の成分を一度でも体に入れて
しまうと、もう自分の体では作らなくて良いと命令を出してしまう。
体を直そうとする働き、治療の妨げになるからというのです。さらに
は骨髄適合なのに無菌室が無く、結果的にいちかばちかの移植を行わ
なかったことなど、これら全てのことが、信心で病気に立ち向かうこ
とができるようにとの、ご本尊様の慈悲なのでしょう。
 3年しか生きられないとの医師の診断を見事に裏切り、死の淵から
蘇り仕事をこなす私を皮肉ってか、同僚からはゾンビ「たじこば」と
呼ばれています。「妙とは蘇生の義なり蘇生ともうすは蘇る義なり」
未だに私のカルテには 完治とは書かれておりませんが、しかし健康
な方と何ら変わらない状態で、健康な方よりハードな人生をおくって
おります。毎日が臨終ただ今にありです。池田先生の友へ贈る言葉の
中から「臆病よりも勇気、愚痴よりも行動、諦めるよりも挑戦、前へ
前へと進んだ人が勝利者だ」とあります。いつかやってくる自分の使
命が終えるその日まで、生きて生きて生き抜き更なる人生ドラマを造
り続けます。


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